皆さん、ご機嫌よう! タカミックスです。今回はディープ・パープルと聞いて多くの人が真っ先に連想するであろう黄金の第2期ディープ・パープルについてです。
それでは、行ってみまShow!
目次
問題発生
第1期ディープ・パープルのメンバーチェンジは1969年3月にバンドのボーカルであるロッド・エヴァンスとベースのニック・シンパーのバンドの脱退から始まりました(正式な脱退発表は1969年7月)。
ロッド・エヴァンスは音楽性の相違(プライベートの問題もあった)による脱退でしたが、ニック・シンパーはバンド側から辞めさせられてしまいました(※後述)。なのでニック・シンパーはバンド解雇を不服としディープ・パープル側に裁判を起こしております。
ロッド・エヴァンスが言う音楽性の相違についてなのですが、第1期ディープ・パープルはアートロックであったと評されます。実際にアートロックと聞くと幻想的なイメージを持ちます。しかし第1期ディープ・パープルには速弾きギタリスト(当時は速弾きギタリストと言われていた)であるリッチー・ブラックモアと、サラッとオカズの多いスピーディーなドラムを叩くイアン・ペイスがおりました。
なので第1期ディープ・パープルはアート・ロックでありながら、ライブでは各々が技術に裏付けされたインプロビゼーションによる激しい演奏を行っていました。当然必然的に音量は上がりテンポも速めと、後に第1期ディープ・パープルがハードロック・バンドへ転換する兆しは見えていたのです。
となるとロッド・エヴァンスとしてはハードロックへ傾くバンドで自分のバラードシンガー的な本領を発揮し難くなってしまうのです。この辺がロッド・エヴァンスが感じていた音楽性の相違となりました。
ディープ・パープルと言えば? 黄金の第2期
ディープ・パープルと言えば真っ先に黄金の第2期ディープ・パープルを連想する人は多いのではないでしょうか?
その第2期ディープ・パープルのボーカルがイアン・ギランです。
1969年初頭にはロッド・エヴァンスは自分のボーカルスタイルがバンドに合わないことを感じていました。また同時にジョン・ロードとリッチー・ブラックモアもロッド・エヴァンスのボーカルスタイルがハードな曲調に合わないことを感じていました。
なので第1期ディープ・パープルは、ロッド・エヴァンスが脱退宣言をする前から、新しいボーカリストを探しました。
テリー・リード
まずリッチー・ブラックモアはシンガソングライターであるテリー・リードに声を掛けます。
このテリー・リードとは知る人ぞ知るレッド・ツェッペリンのボーカルを断ってロバート・プラントとジョン・ボーナムを紹介したミュージシャンです。
しかし、テリー・リードはリッチー・ブラックモアの誘いを本気とは思っておらず、また当時彼のプロデューサーであったミッキー・モストとの契約に縛られていたこともありリッチー・ブラックモアの誘いを断ります。
エピソード・シックスから
テリー・リードにバンド加入を断られたリッチー・ブラックモアは旧友であるミック・アンダーウッドからポップ・ロックバンドであったエピソード・シックスのボーカリスト、イアン・ギランを紹介されるのです。
第1期ディープ・パープルのオーディションに現れたイアン・ギランですが、この時に同行していたのが同じくエピソード・シックスのベーシストであるロジャー・グローヴァーでした。
ディープ・パープルは新メンバーのオーディションに同行者がいないといけない掟でもあるのでしょうか?
オーディションを通過しイアン・ギランは無事ディープ・パープルの加入が決定しましたが、この時にイアン・ギランは強くロジャーグ・ローヴァーの加入も進めてきました。
そこでディープ・パープル側は辞めるとは言ってなかったベーシストのニック・シンパーを解雇し(とは言えニック・シンパーも音楽性の違いから辞めることは考えていたらしいが)、ロジャー・グローヴァーも加入させたのでした。
ここで前述のニック・シンパーが起こした訴訟問題へ発展するのです。
ボーカル | ギター | ベース | キーボード | ドラム |
イアン・ギラン | リッチー・ブラックモア | ロジャー・グローヴァー | ジョン・ロード | イアン・ペイス |
アートロックかハードロックか?
ディープ・パープル黄金の第2期が結成された1969年、イギリスとアメリカの音楽シーンではハードロックに注目が集まっていました。
そのハードロック・サウンドの火付け役となったグループが天下のロックバンドであるレッド・ツェッペリンだったのです。そんなハードロックブームに目を付けたのがリッチー・ブラックモアでした。
リッチー・ブラックモアはレコード会社も変わり、パワーシャウターでもあるイアン・ギランが加入したこともありハードロックへのバンドサウンドの方向転換を計ります。
しかし、ハードロックサウンドへの方向転換を提示するリッチー・ブラックモアと、バンドの主導権を握っていたジョン・ロードの意見が対立します。
ジョン・ロードはクラシックをベースとし即興演奏もこなす独特のバンドカラーを持ったパープルの音楽性を博打とも思えるハードロックへの方向転換はしたくなかったのです。
意外と勘違いされてるイアン・ギラン加入のジャンルについて
意外と勘違いされているのですが、イアン・ギランが加入したのでディープ・パープルがハードロック・バンドになった訳ではありません。
確かにリッチー・ブラックモアはハードロックバンドへサウンド転換をするためにイアン・ギランを加入させた訳ですが、ジョン・ロードの方は純粋にシンガーとしての実力不足からロッド・エヴァンスの解雇に動いた訳です。なのでジョン・ロードとしてはハードな歌い方もできるシンガーとしてイアン・ギランの加入を認めたのです。
また、イアン・ギランが在籍していたエピソード・シックスを聴いて頂ければ分かるのですが、エピソード・シックスは完全なポップスなんです。なのでエピソード・シックスでは非常に可愛らしい歌い方をしているイアン・ギランを見ることができます。
そんなジョン・ロードの意思を尊重するかの如く、イアン・ギラン加入後にアートロックスタイルでのシングル曲『ハレルヤ』をリリースしております。
『ハレルヤ』はディープ・パープルのオリジナル曲ではなく、ロジャー・グリーナウェイ&ロジャー・クックと言うヒットメーカー(日本で言うなら松本隆&筒美京平みたいな感じ)によって書かれた詩と曲です。元々はデレク・ローレンス・ステートメントによって歌われた「アイ・アム・ザ・プリーチャー」と言う曲です。
イアン・ギランは曲の最後にシャウトこそすれど、ヒジョーに大人しく歌っている曲です。またイアン・ギランは自分が詩を書けなかったことにイラついていたとか。
なお、ロジャー・グローヴァーはビデオクリップに登場こそしていますが正式加入しておらず、セッションミュージシャンとしてのレコーディングでした。
蛇足ですがイアン・ギランが歌っているハレルヤのオランダや日本のシングル版ジャケットには第1期ディープ・パープルの写真が使われております。ただしB面が第1期ディープ・パープルの『4月の協奏曲』なので間違っていない! と、非常に苦しい言い訳も存在しております(笑)。
ジョン・ロードVSリッチー・ブラックモア(意見の対立)
さて、イアン・ギランの加入に伴いリッチー・ブラックモアが提唱するハードロック・サウンドに方向転換したくないジョン・ロードの考え方は至極もっともなことです。
確かにロッド・エヴァンスの甘い落ち着いた声質と、金切り声のイアン・ギランの声質では余りにも違い過ぎます。しかし決してイアン・ギランもアートロック路線の曲を歌えない訳ではありませんでした(タカミックスは抑えて歌うイアン・ギランの声が好きなのだ)。
そんなメンバーが変わっても引き続きクラシカルな路線に向かいたいジョン・ロードに、英国放送協会(British Broadcasting Corporation、以下BBC)から世界初の観客の前で(レコーディングのみならばムーディー・ブルースの『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』と言う作品があった)ロックバンドとオーケストラの共演を行わないかとの誘いが来ました。
今でこそメタリカですらオーケストラとの共演をしていますが、当時は非常に活気的な話だったのです。このBBCが持ちかけてきたオーケストラとの共演と言うのがアルバム『ディープ・パープルⅢ』に収録されていた『4月の協奏曲』がキッカケなんですね。
そのBBCからの話を聞いたリッチー・ブラックモアは、これ幸いとばかりに1つの提案をします。リッチー・ブラックモアはオーケストラとの共演に参加する代わりにハードロックのアルバムを作らせて欲しいとジョン・ロードに頼んだのです。
リッチー・ブラックモアは自分が主導するハードロックサウンドのアルバムが売れなければ、今後ディープ・パープルでハードロックは行わないとジョン・ロードに告げたそうです(後年の傍若無人なリッチーを見てると、とても信じられない話なのですが…)。
このリッチー・ブラックモアの提案をジョン・ロードは承諾しました。
まずはオーケストラと共演する『ディープ・パープル・アンド・ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』の制作、そして結果としてバンドの運命を決定付けるアルバムとなった『イン・ロック』の制作(実際はオーケストラと共演する前からレコーディングは開始されていた)が始まるのでした。
実際はジャンルの決まっていなかった第2期ディープ・パープル
このことからも分かる様に、イアン・ギランが加入した時点では第2期ディープ・パープルの音楽性は固まっていなかったのです。
そして第2期ディープ・パープルはイン・ロックのレコーディングに取り掛かりながらも、オーケストラとの共演に向けての練習が始まるのでした。
つづく